-隠忍武者-
御存知、日本のみならず世界規模で著名な『忍者』の代名詞的存在。
ただし、“服部半蔵”の名を冠した人物は幾人か存在し(伊賀服部家各代当主が“半蔵”を襲名するため)、彼はその中でも「一般に“服部半蔵”といえばこの人物にあたる」とされる2代目“半蔵”、東照神君・徳川家康に仕え伊賀忍を統率した事で知られる服部半蔵正成である。
…尤も、あまり周知されていない事実として、肝心のこの半蔵は(というより初代以外全員)忍者ではなく、半蔵正成は武将、それも戦場にて「鬼半蔵」と怖れられ、徳川十六神将の一角に名を連ねる、バリバリの武闘派であったという。しかしながら初代半蔵のイメージや伊賀同心を率いた史実から、後世の創作物等では専ら当人も忍者であるが如く誇張・脚色され、その結果「忍者・服部半蔵」なる怪人物像が人口に膾炙する結果と相成ったのである。
伊賀服部氏の系譜は伊賀地方の土豪(地方を管理統率する首長。神祇を祀る祭司としての役割を兼ねる)、また一説には神道・仏教・景教等様々な曰くのある渡来人一族・秦氏、と諸説挙げられる。それらを抜きにしても服部氏は諸地に点在し、また「諸家生出各別にして、混然として一統の如く、みな服部となる」、と様々な門地、文化形態が複合された、確証ある源流を見出せない――実も蓋もない言い方をすれば“良く分からない”一族であったといえる。
所謂“伊賀流”忍術とはそうしたまつろわぬ者達が、群雄割拠の時代において己が身と土地を守る為に編み出した数々の術の結晶であり、そのルーツからか比較的、伊賀流は呪術・奇術を重んずる流派である(らしい)。型月スラング(?)で言うところの、ガチのNOUMIN集団である――等といった冗談を抜きにしても、彼等はまさしく“怪物”と化した無辜の民であった。
初代“半蔵”服部保長は影働き(工作・諜報)という功禄薄き服部の生業を案じ、後胤たる正成には忍びの術より専ら武芸を叩き込み、彼を武者と成るべく育て上げた。父の仕えた松平の系譜・徳川家に仕え、後に「神君伊賀越え」等の逸話に表される忠義者として讃えられた正成。それは徳川家の者であれば介錯も出来ぬと落涙する程の傾倒ぶりであったという。
……その在り方は、父の意図した手段・方針としての“忠誠”とはいささかに、しかし致命的に食い違っていた。
金銭契約により主君を容易に換える伊賀者のスタンス。
「利益至上主義」という、ある種絶対的かつ、下克上の戦国の世において究極解とも言える価値基準。
それを去勢されて育ったかの非忍者の、その胸中に残った、或いは宿ったモノは如何なるものだったろうか。